ラッシャー木村 (1941 – 2010)

[ プロレス ]
2010年5月24日 月曜日

連続してプロレスネタになってしもうたが、今日はさすがに外すわけにゃぁいかん。

自分がプロレスを毎週見るようになったのは、1980年の夏。広島県には東京12チャンネル(現・テレビ東京)系列の局が無く(っつうか、全国的にあまりない)、国際プロレスの存在は雑誌や本でしか知ることがなかった。

数年前にリリースされたDVDボックスセット『伝説の国際プロレス』や『不滅の国際プロレス』で、初めてゆっくりとラッシャー木村の国際時代の試合を見ることができた。面白いけど、確かに華が無い。

初めて木村をテレビで見たのは、国際プロレス崩壊後、1981年9月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの大会での出来事。新日との対抗戦に備え、緊張感のある会場で、木村はマイクを握り、丁寧に挨拶し、観客の失笑をかった。後にビートたけしのネタにもされて有名になった『こんばんわ事件』である。

それ以後の木村は、猪木相手に悪役を演じた。小学生だった自分は、本当に木村は悪い奴だと思い込んでた。ファンが自宅に石を投げたりして、犬がノイローゼになって死んでしまったというのも、雑誌のインタビューで読んだ記憶がある。

結局猪木の相手として使い物にならなくなると、UWFの旗揚げに参加。このUWFという団体自体、怪しい理由で発足し、ここでも木村は利用されて終わったような気がしないでもない。

その後ジャイアント馬場の全日本プロレスに、当初は馬場のタッグパートナーとして参加するも、結局直後に馬場相手の悪役に。とはいえ、中堅どころのコメディマッチでマイクを握っての、馬場や他の選手達に対するコメントが、木村を全国的に人気者にしたというのも事実。

多くの人達が言うのは、ラッシャー木村という人間は、物静かで、本当にいい人だってこと。そんな人が、リング上では悪の限りをつくしたり、マイク持って喋ってたりした。

70年代かそれ以前からプロレスを見てる人達にとっては、いつも金網の中で血まみれで試合をしていた印象が強いんだろうな。

90年代以降にプロレスを見始めた人達にとっては、マイクを握って笑いを取ってるオヤジってとこなんだろうか。

だが、国際プロレス崩壊寸前にプロレスを見始め、80年代後半に日本を出た自分にとっては、なんとなく哀愁漂うレスラーという感じがする。だからこそ、いつも気になる存在でもあった。

たくさんの思い出に感謝。

RIP…


獣神サンダー・ライガー in Rahway

[ ニューヨーク / プロレス ]
2010年5月22日 土曜日

今夜は、ニュージャージー州ローウェイで行われたJAPW(ジャージー・オール・プロ・レスリング)というプロレス団体の大会を見に行った。

この団体の試合は見たこともないし、Rahwayという町自体行ったこともなかったが、あの獣神サンダー・ライガーが来るというので、いつも一緒に行く友達プラスそれぞれの嫁さんの、計6人で行ってきた。ちなみにうちの嫁さんにとっちゃ、これがプロレス初観戦。

初めての団体とはいえ、この辺の中規模団体ってのは、大体同じような選手が出るんで、全然知らない顔ぶれってわけでもなく、そのうえ、最近連続してウェストチェスターで見たような、普段あまり興行やってない団体とは違い、十年以上やってるとこなんで、それなりにまとまってた。ちゃんと8時に始まり、11時に終わった。

前半、日本の団体『ZERO1』でも常連のスティーブ・コリノが出てきて、エディ・キングストンという選手と試合。コリノ、やたらこっちを見てるなぁと思ってたら、試合の途中で、こっちに向かって叫んでる。最初は、スペイン語で「mucho」って言ってんのかなと思ったら、よくよく聞くと、我々日本人に、「もう一丁!」と叫んで欲しかったらしく、それに気付いた自分は、思わず本人に向かって、「Oh, now I got it! (あ、やっとわかった。)」と叫び、リクエストに答えてしまった。直後にコリノは負けたんだが。(笑) まさか、その日本人の一人が時々メールをやり取りしてる相手だとは、本人も思ってなかっただろう。

セミファイナルは、なんでも有りのタッグマッチで、ネクロ・ブッチャーが登場。映画『The Wrestler (レスラー)』で、ミッキー・ロークの演ずる『ランディ・ザ・ラム』と血みどろのデスマッチをやってた、髭もじゃのおっさんといえば、覚えてる人もいるかもしれない。なんか、試合の半分以上が場外乱闘で、終いにはうちらも各自椅子を持ったまま逃げ回ってた。ちょっと乱闘が長すぎたかな。

セミが終わると、場内は、ライガーへの声援で盛り上がる。そりゃそうじゃろ。90年代が全盛期だったかもしれないが、多くのファンにとっちゃぁ、生で見るのは初めてのレジェンド中のレジェンド。相手は何度も来日しているホミサイド。場内の声援は二つに分かれるが、ややライガーの方が上だったような。最終的にはライガーが負けたけど、試合後、ホミサイドは選手の殆どをリングサイドに集め、マイクでライガーに対する敬意を表す。音響が悪いんで、あまり聞き取れなかったけど、「あなたがいたからこそ、我々はここにいる。」っぽいことも言ってたかな。最後はライガーにマイクを渡し、「Thank you, America! Thank you very much!」でシメ。

他の試合も含め、全体的にバランスが取れてて、よかったと思う。一時間運転は面倒だが、でも誰が出場するかによっては、また来てみてもいいかも。

ところで、休憩時間中、一緒にいた友人の一人が、$20払うと控室にいるライガーと一緒に写真撮れるってことで、「みんなで一緒にどう?」と誘ってくれたもんで、6人でぞろぞろと部屋に押し寄せてった。

ここからは同郷の人にしかわからんネタなんで、適当にスルーしていただければ。

Hisa「一つ質問していいっすか?」

ライガー「あ、はい、どうぞ。」

H「海田(広島市の隣町)にいらっしゃった時、ジムかなんかで一緒だった、Iさんって覚えてます?」

まさか、ニューヨーク近辺でいきなり超地元ネタで話をふられるとは、本人も思ってなかったのか、驚いてるっぽい。

ラ「海田? 海田には高校の時にいてねぇ…」

H「はい、その頃、ジムかどこかで、Iさんって方、いませんでした? 空手やってる人で…」

ラ「あれ? Iさんだったら空手じゃなくて…」

H「あ、ボディビルかも。」

ラ「あ、そうそう。あれ、でも…、え!?」

H「友達なんですよ。同じ町で。」

ラ「うわ、世の中狭い! よろしく言っといてください。」

満更無理して話を合わせてくれてた雰囲気でもなかったし、結構本気で驚いてるような感じだったんで、おそらく本当にIさんは覚えてもらってるらしい。(笑)


西村修と武藤敬司が…?

[ プロレス ]
2010年5月21日 金曜日

今日の夕方(現地時間)、国民新党からの夏の参院選出馬を前にして、全日本プロレスの西村修が武藤敬司社長と共に、なんとなんと、我が故郷東城まで街頭演説しに行ってたとか。広島県北が亀井兄弟の地元ってこともあるんだろうが…。

いやぁ、別に二人ともファンっつうわけじゃねぇけど、見に行きたかったのぉ~。


PWS in White Plains

[ ニューヨーク / プロレス ]
2010年5月8日 土曜日

今日は、車で15分くらいのとこにある高校でプロレスがあるってんで、いつものとおり友人と三人で行ってきた。

試合は7:00pm開始ってことだったが、朝から5:00pmまで、グッズを売ったりサイン会をしたりのファンフェスティバルがあるとのことなんで、3:30pm頃行ってみた。

5:00pm頃、友人二人が到着。そのまま三人でホワイトプレインズのバーで時間潰し。

会場に戻るが、もちろん7:00pmになっても始まらん。

このPWSという団体、これまで実際に行った大会の数よりも、キャンセルした数の方が上回り、それもプロモーターの評判が悪いことで有名。んなもんで、実際、宣伝されてた選手達が本当に出場するのか、正直疑う面もあった。

とはいえ、二年前にこの団体の大会に行った時も楽しかったし、全体的には、さすがに試合数をこなしてる分、先日ニューロシェルでやった団体よりは、内容も濃いし、充実している。キャンセルしたのも、女子選手一人だけだったらしい。

日本の総合格闘技でも試合をしたことがあるボクサーのバタービーンが、この団体のチャンピオンらしく、この日、前座の試合で王座脱落。

前半にデズモンド・ウルフ(元ナイジェル・マッギネス)が出てきたのは意外だったが、さすがにナイジェル、リングが狭いのにちゃんと試合をしてくれる。女子の試合も、全然知らない二人だったが、結構面白かった。

途中、あるタッグ戦で、一人がバルコニーから、下のテーブルの上に寝転がってる相手選手の上にダイブするという、とんでもないことがあったが…。まぁ、周りに座ってた客は盛り上がってたけど、特に必要もないんじゃないかな、あぁいうのは。

一番よかったのは、やっぱA・J・スタイルスの試合。休憩時間に話す機会があったんで、自分のプロレスのサイトの、クリスチャンレスラー達による証を集めたページに、何か書いてくれるか頼んだら、引き受けてくれた。まぁ、忙しい人だろうから、本当に書いてくれるのか、わかったもんじゃないが…。試合は、元WWEのポール・バーチルに勝利。

他にも、80年代に活躍したハックソー・ジム・ドゥガンやドインク(初代、マット・ボーン)、グレッグ・バレンタインらが顔出したり、誰かのセコンドにはかつて日本でラッシャー木村の足を折ったオックス・ベイカーが付いてたり、売店にはマニー・フェルナンデスが座ってたりで、色々な顔ぶれだった。

気が付くと11:00pm近かったので、最後の試合を見ずに出てきてしまった。後でニュースを読んだら、カトリック系の高校が会場だったにも関わらず、大流血試合だったらしい。これまた、あほなことを…。

さて、再来週は、ニュージャージーの別団体の試合に、広島出身の獣神サンダー・ライガーが出場。もちろん行く予定。


ブリスコとキニスキー

[ プロレス ]
2010年4月15日 木曜日

ジャック・ブリスコ ジン・キニスキー

今年に入って、二人の伝説のレスラー達が他界した。

2月1日には、ジャック・ブリスコが68歳、そして昨日4月14日には、ジン・キニスキーが81歳で。

二人とも、元NWA世界ヘビー級チャンピオンで、ジャイアント馬場とも縁のある選手達。自分がプロレスを見始めた時には全盛を既に越えていて、ブリスコはまだ弟ジェリーとのタッグで活躍していたが、キニスキーの試合はリアルタイムでは見たことがない。

ブリスコは、学生時代にアマチュア・レスリングで活躍し、アメリカ先住民としては初めてNCAA選手権を獲得。プロ転向後も、正統派としてトップに君臨。そして、1974年12月、馬場が日本人で初めて当時世界最高峰と言われていたNWA世界王座を奪取した時の相手もブリスコだった。ブリスコは、この馬場に奪われた数日間を除くと約二年半に亘り、同王座を保持した。

一方キニスキーは、タフさと気性の荒さを売り物にし、日本では『荒法師』とニックネームがついていた。

1961年には、バーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級選手権を約一ヶ月保持。

1966年1月に、今尚世界最高だったと言われるルー・テーズを破りNWA世界王座を奪取。

実際に気性も荒く、世界王者時代の1968年夏、NWA年次総会にて、会員のプロモーター達を相手に堂々と、『ギャラをピン撥ねするばかりのヒモ野郎共』と罵り、翌年2月ドリー・ファンク・ジュニアに世界王座を明け渡す。3年強、世界王者に君臨した。

馬場が自身のベストバウトに選んだのが、1967年8月、大阪球場でキニスキーを相手にインターナショナル・ヘビー級選手権を時間切れ引き分けで防衛した試合だった。1970年には、一度馬場から同王座を奪取したこともある。

またキニスキーは、1999年1月に馬場が亡くなった後も、同年5月2日、東京ドームで行われた馬場の『引退試合』や、2002年1月に行われた全日本プロレス30周年記念セレモニーを含め、何度か来日している。

二人の偉大な功績に感謝しつつ。

RIP…