備中町の女王

自分の故郷、東城町に、『備中町(びっちゅうまち)』という地域がある。

岡山県から国道182号線を通り、東城の街に入り、東城川に架かる『大橋』を渡ってから突き当たりの古い旅館までの商店街とその周りの裏通りのことをいう。備中国(岡山県)から備後国(広島県)に入ったとこの市街地だったからそう呼ばれるようになったらしい。

その昔、備中町に、ある夫婦が営む化粧品やシャンプー、石鹸などの美容・健康商品を売る店があった。線香とかロウソク、虫除け関連の物も売ってた。あと短期間だが駄菓子屋やってた時期もあったっけ。結局、何屋と言やぁええか、ようわからんかった。

夫は、陸軍兵として日中戦争にも行ってたということを想像させないくらい、柔和そうで物静かな人。そのせいか、日本人女性としては比較的体が大きく、顔も大きく、おまけに声も大きい妻の方が目立っていた。

その夫婦には7人の子供がいた。それぞれが結婚して子供を儲け孫が16人、やがてその孫達も育ち曾孫も数名与えられた。

正月や盆などの集り事には、その家に、子供や孫達の大半が集結し、まるでどこかの幼稚園の遠足か、あるいは商店街の集会かと思わせるくらい賑やかになり、大宴会が開かれていた。

家族が集らない時でも、店の奥の居間に座ってるその夫婦のとこには、しょっちゅう誰かが遊びに来ていた。多くの場合、備中町のご婦人達で、中年の人達はもちろん、どう見ても孫がいるだろうというくらいの年齢の人達まで、彼女のことを『お姉さん』と呼んでいた。

時には、その人達を呼んで、花札を打ってたこともあった。

日本で『カラオケ』なるものが出始めた頃、早速その夫婦は8トラの専用機を買い、近所の人達を集め、カラオケ大会をやっていた。広島県のローカルTV番組が取材に来たことさえあり、隣の家が会場だったにも関わらず、それを仕切る中心人物として紹介されたのも、やはり彼女だった。

幼い自分にとって、彼女は正に『備中町の女王』だった。

だが、そんな彼女も次第に年老いていった。

今回の帰国では、会話さえできなかった。その夫婦に挨拶に行き、彼女が既に全然声も出ず会話もできない状態だったんで、別の部屋で夫と話してると、奥からかすかな声で、『誰が来とるん?』と聞こえた。再度彼女のとこに行き、今度は手を握り、「尚玄じゃ。帰っとるんで。」と言うと、口だけではなく、マブタも少し動いた。

その前に会ったのは、一年半前の前回の帰国の際。その時は既に寝たきりだったが、意識はまだまだしっかりしてて、会話もちゃんとできてた。彼女と話してると、夫が入ってきて、「うちはそろそろ夕飯じゃ。わしゃぁ昔の人間じゃけぇ、男が女にメシの面倒してやっとるような姿は見られたくないけぇ、悪いが帰ってくれ。」と言う。帰りがてらに彼女に、「でもなぁ、この歳になって、やっと爺さんにメシの世話してもらえるのも、ある意味幸せなんかもよ。」って言ったら、彼女はその日初めて見せた大きな笑顔で、「そうじゃ、そうじゃ。」と返してきた。それが最後の会話だった。

タイミング悪く(?)、自分が今回の帰国を済ませニューヨークに戻ってきてから数日後だった。

でも、今は楽しかったことしか思い出せない。

近所の人達から『お姉さん』と呼ばれ親しまれている姿。

斜め向かいの家で飼われてた九官鳥にまでマネされていた、甲高いが深みもある、うるさいくらい大きな笑い声。

子供や孫を集めての伝説の大宴会の数々。

そして、最後に見せてくれた最高の笑顔。

90年間、お疲れさん。婆ちゃんの孫で本当によかったよ。

「備中町の女王」への1件のフィードバック

  1. 伊勢村耕充

    ご祖母様のご逝去を悼み衷心よりお悔やみ申しあげます。

    ご近所でもあり何度か声をかけていただいたことがあります。お若いときからみなさんのお世話を喜んでされていて誰からも親しまれる存在でした。私の家族間では「さなえさん」とお呼びしていたものです。

    またひとつ備中町から灯りが消えてゆきました。寂しいです。でもお孫さんがニューヨークで活躍していることを,これからは天国で,誇らしくお思いでしょう。

コメントは受け付けていません。

上部へスクロール

Copyright © 2005-2025 Hisaharu Tanabe.
Privacy Policy
Site hosted by Arisu Communications