紙一重

先月、うちの教会の礼拝で話すために準備をしていたら、改めて感じたことがあった。

現在アメリカでは、『ポリティカル・コレクトネス』(political correctness = PC)というのが重要視されている。政治的・社会的に公平または中立的で、「言葉における差別や偏見を取り除くために、政治的および社会的な観点から見て正しい用語を使う」ということ。

本来、人々への差別や偏見による攻撃を避けるために始まったことだと思われるが、現状としては多くの場合、facebookやtwitterなどのSNS上でのちょっとした発言が、このPCに触れることにより、多くの人々によって、発言者が大悪人扱いされ、それによって、実際に嫌がらせをされたり、職場から解雇されたりすることもある。当然、SNSで発言する場合は、世界中が読んでいるという可能性を認識し、軽はずみなことを言うべきではない。とはいえ、「締め上げられて当たり前」というケースもしばしばあるのも事実だが、中には、「これくらいのことで、いちいち世界中が騒いでたら、発言するのも面倒になる」ということも少なくはない。

一方、それとは別に、いつも言ってることだが、聖書に書かれていることを利用して、独自のキリスト教的価値観を押し付けながら、他人を攻撃したがる人達が結構存在する。中には本当に、「これこそがキリスト教」と信じてそうしてる人達も多いと思うが、ことあるごとに、「それは聖書的ではない。」と言って、自分自身の罪を棚に上げて文句を言ってるのをよく耳にする。『キリスト教』とやらを掲げながらも、イエスが最も大事なものとして説いている『愛』の欠片もないようなことが実際に多い。

新約聖書の中での、イエスと、律法学者やパリサイ派の人達とのやり取りを読んでると、多くの場合が旧約聖書に書かれている律法についての議論。本来、神様が人々のために与えてくださったはずの律法だが、それを使ってイエスを批判している。『人のための律法』のはずが、まるで『律法のための人』であるかのような状態になっている。要するに、多くのクリスチャンも、イエスを攻撃していた律法学者やパリサイ派といった人達と同じようなことをしているのが現実だ。

聖書もPCも、本来は社会をよくするために用いられるべきもののはず。

だが現在のアメリカでは、右寄りの人達はまるで自分たちだけが正しいかのような聖書を使った価値観を、左寄りの人達は過剰なPCを、それぞれ武器にして、人々が攻撃し合っているのが現状。

小学3年生の時だったか、ある日学校で同級生が言ってきた。

「わしの父ちゃんは自民党なんよ。田辺君とこは何なん?」

「よう知らん。訊いてみる。」

その晩、親父に質問してみた。

「あの、自民党とか社会党とか、ニュースで言うとるやつ、何なん?」

「ありゃぁのぉ、みんなが先生いうて呼ばれてぇけぇ、色々名前付けてグループを作りょうるだけよ。まだあんまり知らんでもええ。」

後から思うと、小学生の自分にそんな説明はなかろうと思ったが、今になっては親父が言いたかったことがよくわかる。

5年生か6年生だったと思うが、ある別の日、ニュースを見て気になったことがあったんで、多分親父からは自分が解りやすい説明がないかもしれないような気がして、今度は、(おっとりしてるもんで、別の意味でまともな説明を期待できなさそうな)母ちゃんに訊いてみた。

「右翼と左翼ってどう違うん?」

「ん…? 『右も左も紙一重』って、よう言うんよ。似たようなもんじゃが。」

他人同士で全くキャラの違う2人とはいえ、結婚生活も続くと、多少は似てくるんだろうか。

それ以降も、ニュースで右翼や左翼の過激派が騒ぎを起こしたとか聞くと、時々母ちゃんは「右も左も紙一重」と呟いていた。

これまた当時はしっくりこなかったが、今となっては母ちゃんが何を言いたかったかよくわかるような気がする。

かといって、バランスを保つのは難しいんだけど。

Jesus loves y’all.

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