大学時代はテキサス州北部で過ごした自分だが、その間何度かニューヨークに遊びに来ていた。
コンピューターサイエンスを専攻していたのもあって、一般の人達よりも一足早くインターネットを使っていた。その中の『ニュースグループ』やインターネット以外のパソコン通信などで知り合ったアメリカや日本のプロレスファン達とよく連絡を取っていて、ニューヨークへの旅行や日本へ帰国した際に、それで知り合った人達に会うこともあった。
1991年の12月もまたニューヨークに来ることにしていたんだが、マンハッタンからハドソン川を越えたところにあるニュージャージー州で、当時WWF(現WWE)に次ぐ全米第2のプロレス団体だったWCWの大会があるというんで、ニュースグループで知り合ったロングアイランド在住のアメリカ人に連絡を取り、チケットも買ってもらって一緒に行くことにした。ただ、飛行機の切符を購入してから知ったのは、その大会の前日、ダラスにもWCWが来るってこと。どうせなら、それに行けばよかったと、多少後悔した記憶もある。WCWは12月25日にアトランタ、26日にダラス、そして27日にニュージャージーと、結構強引な移動の3日間だったようだ。
会場はメドウランズ・アリーナという、現在もNFLの試合などで使われるメットライフ・スタジアムと同じ敷地内の屋内会場で、確か当時はNBAのニュージャージー・メッツが本拠にしていたと思う。自分の記憶では結構客が入ってたと思ったが、後で調べると5,000人程度だったとか。その後、同会場へはブルース・スプリングスティーンやエアロスミス、サイモンとガーファンクル、そしてUFCなど、何度も足を運んだが、そんな大きなイベントをやる場所だということを考えると、全然大したことない動員数だったということか。
事実、その頃のWCWは、ある意味低迷していたような気がする。というのは、『今尚NWAを追う(4) – WCW離脱』でも多少触れたが、その夏リック・フレアーがWCW世界ヘビー級王者のまま解雇され、WWFに移籍したからだ。新王座決定戦でレックス・ルガーがバリー・ウィンダムを破った時からずっと、会場が「We want Flair! (フレアー出せ!)」という声一色になることが多かった。当日も、フレアー解雇から半年近く経っていたにも関わらず、メインイベントの王者ルガーとリック・スタイナーの試合では、相変わらず開始直後から案の定そんな感じだった。
試合結果 (左が勝者):
- P・N・ニュース (6:10) テリー・テイラー
- ジム・ガービン (5:31) ダイアモンド・ダラス・ページ
- ザ・Zマン (4:15) ラリー・ズビスコ
- アブドーラ・ザ・ブッチャー & カクタス・ジャック (5:30) エル・ヒガンテ & ヴァン・ハマー
- WCW・USヘビー級選手権: リック・ルード (11:35 反則勝ち) スティング
※ ルードが王座防衛。 - ジョニー・B・バッド (6:19) リッキー・モートン
- WCW世界テレビ選手権: スティーブ・オースティン (15分時間切れ引き分け) スコット・スタイナー
※ 実際には14:09だったという説あり。 - WCW世界ライトヘビー級選手権: 獣神サンダー・ライガー (15:45) ブライアン・ピルマン
※ ライガーが王座防衛。 - WCW世界タッグ選手権: リッキー・スティムボート & ダスティン・ローデス (14:38) アーン・アンダーソン & ボビー・イートン
- WCW世界ヘビー級選手権: レックス・ルガー (9:04 両者リングアウト) リック・スタイナー
※ ルガーが王座防衛。
なぜこの大会に行きたかったか、試合結果を見ると一目瞭然だろう。
1988年、自分が留学して1年経った時の夏休みの帰国中のことだったと思うが、広島県北の故郷の歯科医で母の同級生でもあるI先生がこんなことを話してくれた。
「いつじゃったか、広島(市)へ新日本観に行ったら、知っとる子が若手で入っとるんよ。『何しようるんや?』いうて訊いたら、『こちらでやらせていただくことになりました。』とか言うけぇ、びっくりしたよ。山田恵一いうの知っとるや?」
自分が1987年春に留学する前は、若手の登竜門として行われていた『ヤングライオン杯』というトーナメント以外では殆どテレビに出てたという記憶がないし、頻繁に出るようになったのは、自分が留学してからだ。
だが、1980年夏に自分がプロレスを観始めてから初の広島出身の選手だったので、それだけの理由で注目してたし期待もしていた。どうやら、昔ボディビルダーでもあったI先生は、広島市の隣の町で、当時高校生だった山田と同じジムに通っていたらしい。世の中って狭いと感じた。
これまで何度も書いてきたが、自分の日本国内でのプロレス生観戦は1度だけ、それも全日本プロレスだった。だからこそ、ライガーの米国初遠征を逃したくないという気持ちが強かった。その上、2日前の12月25日、ライガーにとって米国デビューだったアトランタ大会で、なんとブライアン・ピルマンからWCW世界ライトヘビー級王座を奪取したという。当初はライガーがピルマンの保持する王座に挑戦するという予定だったニュージャージーの試合も、ライガーの防衛戦になった。
あまり細かいことは覚えてないが、テレビカメラが入ってないハウスショーで、PPVでやっててもおかしくないような感じで2人とも思い切って試合をし、観客もすごく盛り上がってた。
その後のライガーについては、別に自分なんかがここで色々と書く必要もなかろう。
ただ言いたいのは、1990年代、自分が英語圏のファン達の間で『PURORESU』という単語を普及させようとしていた頃、その代表的な選手の1人がライガーだったということ。留学当時日本から送られてきていた新日のビデオで山田の活躍は見ていたし、その後もテレビやインターネットの映像はもちろん、ニューヨークやニュージャージーでの幾度にもおける生観戦でライガーの試合を観てきたが、その時代や行く先々での国や団体のスタイルに合わせた試合をしながらも、強さや戦いというのを常に見せ続けてきたと思う。それも全て、アントニオ猪木や山本小鉄、そして藤原喜明から教わった『昭和新日』という揺るがない基盤があったからだろう。
2010年5月、ニュージャージー州のあるインディの大会のメインイベントで、ホミサイドがライガーに勝利した後、選手の殆どをリングサイドに集めて、ライガーに向かって、「あなたがいたからこそ、今の我々があるんだ。」っぽいことを言ったが、世界中にライガーに憧れた人達がいるというのは、引退表明してから、アメリカやメキシコ、イギリスなど、至る所で観客から感謝の声援が続いたということで証明されている。
プロレスファンでよかったと思わせてくれた選手に、心から感謝したい。
#ThankYouLiger
Jesus loves y’all.




