8月21日は、自分にとって記念日。
まず1980年、自分が小四の時。爺ちゃんが死んだ。身内の死を目の前で見たのは初めてだった。癌の末期で既に相当ヤバかったらしいけど、ガキの自分には知る余地もなく、前夜には隣の部屋からやたらと唸る声が聞こえてきた。当日、医者や看護婦に囲まれ、テレビで誰かが病室で死ぬシーンでよく見る機械がつながれ、最後に医者が、「○時○分でした」と時間を告げる。そして、泣きながらお礼を言う婆ちゃん。ドラマで何度も見たシーンだが、それが身内の死にはつながらず、「え…?」ってな状態。爺ちゃんの顔に白い布切れが被されると、奥の部屋に入り、カーテンの中に座りこんで、泣きまくった。一緒にいたのは結局10年弱だったが、印象が結構強く、爺ちゃんの思い出を書いてるとかなりの量になるんでここまでにするとして…。
三年後の1983年。中一というまだまだ幼い頃だったが、東城キリスト教会 で洗礼を受けた。両親がクリスチャンで自分も幼い頃から教会に通ってて、全然強制されたわけでもなく「受けるか?」って聞かれ、クリスチャンになるのが当たり前だと思ってたんで、迷うことなく受けた。っつうわけで、当時は成り行きで受洗したような気がしないでもない。もちろん洗礼槽に浸かった時のことははっきり覚えてるけど、それ以上に、同じ日に受洗し、水から出てきた後の姉ちゃんの白いシャツがやたらと透けてて、「見えてるけど大丈夫かなぁ」という方がはっきり記憶に残ってたりする。(笑)
でも、当時は自分なりに色々考えてたつもり。小四の頃から続けてた万引きも、洗礼を受けた直後にやめた(受ける前にやめろって感じだが)。受洗はしたけど、意志の弱い自分はすぐに神様から離れたりするんじゃないかと思い、イエス・キリストを自分の中に刻み込みたかったせいか、ナイフで自分の腕に十字架の形の切れ込みを入れるという、狂信的で勘違いなこともやった。同じクラスの友達にも、「クリスチャンって、みんなそうするん!?」と随分誤解を招いてしまった。『心に刻み込む』べきであって、肉体に刻んでどうすんじゃ…。いくらアホなガキとは言え、実際に『刻む』とは、これじゃぁまるでカルトだわな。
あれから20年以上経った。その間、案の定イエス様を忘れかけたり、避けたり、悲しませたりした。でも今ではこの信仰、両親から受け継いだものでもなければ、ただの成り行きで入ってきたものでもなく、自分自身のものだとはっきり言える。振り返ると、あの日洗礼を受けたってこと、神様は無駄にはしてくれてなかった。
今でも夏に日焼けすると、うっすらと腕に十字架の形の傷跡が浮んでくる。若気の至りだったとはいえ、これも無駄にしちゃぁいけんなぁ…。





じいちゃんが死んだときのこと、よう覚えとるなぁ~
実はやっぱ、あんたの方がお兄ちゃんじゃないん!?
外見からしてそうじゃしィ・・・
十字架の傷をつけとったとは知らんかった!!
ええ話、ありがとー。