今、うちの教会の礼拝堂にあるピアノは、2008年に新品で買ったヤマハのベイビーグランド。その隣の、みんなでメシ喰ったりお茶したりする部屋には、それまで10年間礼拝堂で使われてた古いピアノが。
最近ある人が帰国するとかで、ベイビーグランドを安く教会に譲ってくれた。礼拝で奏楽やってる子と二人で品定めに行ったところ、何をどう考えても、その古ピアノよりも良かったので『買い』だと思えた。
んで、今日業者が配達し、前からあった古ピアノを引き取ったらしい。自分は家族で昨日から一泊留守にしてたので、その場にはいなかったが。
というわけで、昨日出発前に教会に立ち寄って、その古ピアノに別れを告げた。
通常、クリスチャンの場合だと、『物』に対して感情移入することを好ましく思わないことが多い。
アメリカのクリスチャンで多いのは、創世記に書かれている「神が創ったこの世のものを人間が管理する」ということに重点を置き過ぎて、物だけではなく植物や動物の命まで平気で粗末に扱うってやつ。神様からいただいてるものを大事にしようとする気配さえ感じられないこともある。
それとは別に、日本人の場合は、全ての物に霊が宿っているという神道の考え方があるせいか、日本人のクリスチャンもその辺に妙に敏感になってることが多く、すぐ偶像崇拝にこじつけてしまう。
でも昨日はそんなこと、どうでもよかった。
教会に入り、息子を抱いたまま、ピアノの前に座った。
うちの教会に運ばれてきた時点で既にペダル脚注が落ちかけてて、外からコンクリートの破片や石を持ってきて支えにして使った。
いくら調律してもすぐまた狂ってしまう。
鍵盤も、どんどん剥がれていった。
それでも自分のニューヨークでの教会生活の大部分を占めてた存在だ。ボロボロになって、翌日処分されようとしているその姿を見てると、愛おしくなってきた。
本来ならば、その上から大好きなブルックリン・ラガーでもぶっかけて『供養』でもしたかったが、さすがに教会のピアノにビールというわけにはいかない。
思わず、二日後で一歳になろうとしている、まだ言葉もろくに解ってなさそうな息子に向かって、
「父ちゃんな、こいつにすげぇ世話んなったんよ。」
とつぶやきながら最後にちょっとだけ弾いてみる自分がいた。
神様がこの教会に与えてくれて、長い間礼拝にも使われ、個人的にも信仰生活に大きな役割を果たしてくれた存在に対して、素直に「ありがとう」って言えた。






普段当たり前にあって気にもしていないものが、自分の生活の中で重要な役割してくれている事ってあってそれって人間関係でも同じ事ですよね。。
自分も捨てれない30年近くもっている革靴今でもあるなあ。。何度日本アメリカ往復一緒にした事だろうか。。笑