『平和の君』

[ 信仰 ]

英語では『Prince of Peace』。その方が判りやすいかもしれない。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

旧約聖書の『イザヤ書』9章6・7節にこう書かれている。イエスがこの世に現れた何百年も前に、その降誕を預言している箇所だと解釈されている。

本来、イエス・キリストという存在は平和をもたらす存在だってことだ。

確かに、聖書をどう読んでも、クリスマスが12月、それどころか、冬だとは書いていない。昔のローマの祭が12月25日頃だったということに合わせてそうなったという歴史もある。

だが、『クリスマス』(Christmas)と呼ばれているのが、あくまでイエスの降誕を祝うための日なのも事実。

そして今、それをわざと忘れようとしている風潮にある。

毎年感謝祭の翌日の金曜は、『ブラック・フライデー』と呼ばれる。多くの店にクリスマスプレゼントを買いに行く人が殺到し、街に混乱をもたらすという意味や、商売上利益が上がり黒字になりやすいことから、そう呼ばれているらしい。

その日は、セールをしている店に前の晩から列が並び、開店すると同時に、客が押し寄せ、その結果、怪我人どころか、死者まで出してしまうことがある。それも『クリスマス』プレゼントを買い求めるためにだ。今年もNY周辺のショッピングセンターで死者が出て、将棋倒しになった負傷者の中には妊婦もいたらしい。

『ブラック・フライデー』の後も、毎年この時期になると、買い物客が増え、車の数も多い。路上や駐車場では運転手同士がいがみ合い、店に行くと殺気さえ感じる形相で買い物を続けている人達も多い。クリスマスに合いそうな平和な雰囲気なんて、かけらさえない。

一方、クリスマスというのが宗教的だという理由で、その言葉に抵抗を持つ人達も多い。先日は、ある中学校で、中3の生徒が、先生に向かって、「メリークリスマス」と挨拶しただけで、謹慎処分を喰らったという話も聞いた。当然、クリスチャン同志でも、クリスマスがどうあるべきかという議論が絶えない。

商業主義や宗教論争ばかりのクリスマスになってるような気がする。

クリスマスの中心が『平和の君』でなければ、根拠のない祝い事や、そのために他人の命を犠牲にしてでもプレゼントを買い漁るという結果を生み出す。正に自己中心の世界。

同様に、キリスト教とかいう宗教も、『平和の君』が中心でななければ、ただの、政治や思想を押し付ける武器にしかすぎない。愛も平安もない道徳論や精神論の世界。

広島県の山奥のド田舎の教会で、穏やかなクリスマスしか知らなかった自分は、アメリカに来てかなり白けてしまったようだ。

たまには、面倒なことや難しいこと抜きにして、キリストの降誕ってのを気楽に祝いたいもんだねぇ…。

なにはともあれ、Merry Christmas!