主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
旧約聖書・詩篇 第1篇1節
1967年秋、うちの両親は故郷にある教会で結婚式を挙げた。司式したのは約半年前に赴任したばかりの、あの田舎町にとってはまだ『新顔』の 牧師だった。
1970年春、その牧師先生ご夫妻は、教会で幼児園を始めた。『幼稚』園ではなく、あくまで『幼児』園。自分がその違いの意味に気付いたのはある程度成長してからだったが…。
以後、我が家とその牧師家族は親戚みたいな関係が続いた。自分にとっては、時間が経てば経つほど、実際の親戚以上の存在になっていった。
ある時、その幼児園に通っていたうちの姉貴の同級の男の子が、以前牧師先生がボーイスカウトの隊長をやっていたことを知り、先生のことを『隊長』と呼んだらしい。以後数十年、卒園生達が大人になってもその愛称で親しまれるようになった。
幼児園時代の自分は、みんなと楽しく遊んでたことも憶えてはいるが、それよりも隊長に怒られた記憶の方が強い。それだけどうしようもない子だったってことなんだろうが、ケツを叩かれた回数も、親父よりも隊長の方が多いような気がする。うちの親父は絶対に顔には手を出さなかったが、隊長には一回だけビンタを喰らわされた記憶もある。今だったら、それだけで虐待とか体罰とか言われるところだが、決してそうではないというのは、当時の園児みんながわかってること。
実際、最も叱られていたと思われる自分も、隊長のことを『憎む』ことはなかった。確かに話しかけるのが嫌なくらい怖かったし、時には何故怒られてるのかもわからないことがあったけど、幼いながらに、『愛のあるしつけ』というのをなんとなく感じてたのかもしれない。
冒頭の聖句も、自分が通ってた頃に当時の園児全員が憶えさせられたもの。あの頃は『牧者』とか言われても、『アルプスの少女ハイジ』のペーターか、でなければ教会からちょっと離れたところに住んで酪農をやっていた教会員のことくらいしか思いつかず、聖書に出てくる羊飼いなんてあまり想像できなかったし、「乏しい」というのもドラマや漫画で物乞いをする人達が言うセリフくらいの認識しかなかったので、その聖句の意味なんて殆ど分かってなかった。だが、あれ以来自分も多少は成長したわけで、今となっては幼い頃に暗記させてもらえたこの聖句に励まされることが多い。
小学校の高学年くらいになると、少々悪さをしたことも含めて、色んな話を親身に聞いてくれるようになった。いや、元々そういう姿勢だったんだろうが、幼い頃は叱られてばかりだった自分が気付いてなかっただけなのかもしれない。
牧師先生ご夫妻はうちら兄弟に対して我が子の様に接してくれた。そして1983年夏、自分もその教会で受洗。
1987年春に自分が渡米してからも、帰郷する度に食事に招いてくれた。成人してからは、「僕はお酒飲まんのに、幼児園の父兄からお中元やお歳暮でやたらもらうけぇ、飲みに来てくれ。」と言いながら、ビールの『処分』を依頼してくるようになった。ある時、夕飯に招いてくれると、「僕は全く飲めんのじゃけど、ひさくんに付き合いたいけぇ。」とか言いながら、コップに半分だけビールを注いで無理して飲んでくれたこともあった。
2003年春、自分の育った幼児園が閉園。最後の卒園式になるべく多くの出身者達を集めようと、うちの姉貴が幹事役で張り切ってたが、さすがにそういう理由では帰国するのはきついと断わった。
だが実際には、お忍びで急遽帰国。姉貴はもちろん、家族や教会の方々を驚かした。結局あの教会で先生ご夫妻に会ったのはそれが最後で、2年後の春になると2人は引退して埼玉に移転した。
翌年秋、自分は3年ぶりに帰国し2人に会いに埼玉の新居まで行った。昼食をご馳走になり、しばらくの間語り合った。
帰り際に隊長が言った。
「ひさくん、僕の葬式には来てくれぇよ。男の約束で。」
「何言いようるんや。あと2回くらいは会おうや。」
冗談半分でアホなこと言いながら別れた2006年11月6日。
だが、『あと2回』というのが現実になってしまった。
昨年9月以来、何人もの友人知人の悲報を聞かされてきたが、今日で8人目。それも、自分にとっては『教会の牧師』よりも『第二の親父』みたいな存在。現在、COVID-19の関係で入国者に対する規制が厳しいため、仮に帰国しても葬式に出れず、15年前の約束を守れないし、とうとう自分のせがれに会わせてあげれなかったのもあって、かなり悔しい想いだ。
自分は複数の信仰関連のサイトだけではなく、プロレスのサイトにもクリスチャンに関する記事を載せているが、これまで何人もの人達が、自分の運営しているサイトがクリスチャンになるきっかけになったとか、または信仰的な励みになったというコメントをくださった。今後もそういう人達が現れるかもしれない。
だからこそ、こんな自分からでも少なからず良い刺激を受けたことがあるという人達には、元を辿るとかつて広島県の山奥の田舎町で38年間牧師をしていた夫婦がいたからだということを知ってほしい。
『小川喜止男』という珍しい名前だったが、『喜びを止める男』どころか、振り返ると自分の人生に大きな喜びをもたらしてくれてたってことを改めて感じる。
今日は夕方から泣き続けてたもんで、夕飯の時のビールもあまり喉を通らなかったが、そろそろもう一杯飲むとするか。もちろんコップ半分なんかじゃなく、しっかりジョッキ一杯で。
隊長の人生に感謝しつつ…。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
新約聖書・ヨハネの黙示録 第21章3~4節
Jesus loves y’all.




