2010年、うちの教会の当時の牧師先生が、教会のみんなで福音書を読んでいこうという提案をした。福音書というのは、新約聖書の最初にある、イエスの人生について書かれている4つの書物。もちろん、うちの教会に限って『全員参加』ってのはありえないが(笑)、とりあえず数名集まった。
だが、その先生は翌年秋に西海岸の教会へ移転。それから3年におよぶ牧師不在の期間が始まる。
とりあえず我々は福音書を読み終えた。とはいえ牧師だけではなく、神学校に行って勉強したような知識豊富な教会員もいない。要するに、聖書の勉強を導ける人間もいないまま、とりあえず我々は新約聖書の残りを読み続けた。
2012年9月、新約聖書の最後にある『ヨハネの黙示録』を読み終えた時、「さて、どうする?」という感じで、みんなに問いかけたら、1人の教会員が(っつうか、うちの音楽の相方だが…)、「そりゃ、旧約聖書の最初からでしょ?」ときた。1人で読むのだけでも大変な旧約を、聖書の勉強に集まっている数名でダラダラと読むのなんか、何年かかるか分かったもんじゃねぇ。正直、「こいつ、正気か?」とか思ったけど、指導者不在の中、特に他に案があるわけでもなく、無謀にも最初から読み始めた。
『創世記』や『出エジプト記』は普通に物語っぽいんで、まだいい。だが、その後になると、きめ細かい律法について書かれてるのが長く続く。解説付きの教本用の聖書を使ってたとはいえ、ろくに説明も解説もできる人間がいないまま読み続けるもんで、正直、大部分が退屈か判り難いかのどちらかだった。
そんな感じで、指導者もおらず、そのうえ戒律的な箇所ばかり読んでるのに、なんと、礼拝だけではなく、礼拝前に聖書を読む時間にも出席し始めたノンクリスチャンの方がいた。それも、しばらくすると、洗礼を受けたいと言い始めた。正直、あんな状況で、どうやったら信仰を持つことができたのか疑問だったが(笑)、2014年6月、次の牧師先生が来る前の週に、隣の州の他教会の先生にお願いして、洗礼を授けていただいた。既に当時所属していた教団から教会堂売却の話も出ていて、半ば混乱状態にある教会だった中、新しい仲間が与えられ、さすがに我々にとっても大きな励みになった。
その次の週から新しい牧師先生がいらしたが、せっかくなんで、日曜の礼拝前に聖書を読むだけではなく、金曜夜の祈祷会の前に、先生指導で通読とは別の聖書箇所を学ぶ時間を追加していただいた。
3年後の2017年6月末、その先生の帰国と同時に、我々は20年以上使ってきた建物から追い出され、教団からも離れ、無所属無牧放浪教会として付近で礼拝できる場所を探しまくるわけだが、ありがたいことに早くも1ヶ月後には礼拝用に部屋を貸してくれる教会を見つけた。そのすぐそばにカフェがあるので、礼拝後はそこにこれまでどおり聖書を読むために集まり、金曜の祈祷会も同じ場所で火曜に変更し、週2回通読の時間を持つことにした。
それでも上手に解説できる人がいないもんで、あまり理解できないまま読み続けることも多く、特に最後の方に続く預言書は、神に従わないイスラエルに対する罰のようなのが続き、読んでて辛いと感じることの方が多かった。
そして2019年9月、ついに旧約聖書通読を完了。その前の新約聖書と合わせて約9年かかった。教会としては色々と大きな変化が続いたが、それでも最初福音書を読み始めた中の、自分を含む3人が今でも残ってるってのはありがたい話だ。
今は、とりあえず無料の聖書アプリの新共同訳に旧約聖書続編があるのを見つけ、その最初にユディト記ってのがあったんで読み始めてる(実際にはトビト記とかいうやつの方が先なんだろうか?)。判り易い物語で結構面白いんだが、それと同時に、何故プロテスタント教会で正典に含まれていないか、なんとなく判るような気がしないでもない。
続編の中には既に読んだのと内容が重複する書物もあるらしいんで、多分そういうのはとばすと思うけど、それ以外を読み終わったら、現存する最古の日本語訳だと言われているヨハネの福音書のギュツラフ訳ってのを読んでみようかという案も挙がっている。表現がかなり古いんで、読むのが難しい分、これまで以上に真剣に理解しようとするんではないかという意見もある。(笑)
もちろん、通読すりゃいいってもんでもなければ、何度読もうと聖書を100%判る奴なんているわけでもない。でも、辛いとこを通って来た教会が、何年もかけて一つのことを達成できたってことは、神様に感謝したいと思う。
Jesus loves y’all.




