10年前の誕生日は日曜だった。普段自分は自分の誕生日を祝ってもらうということに、そこまで拘らないし、毎年家族で外食する程度。だがその日は、せっかく40という区切りのいい数字なんで、我が家に何人か招いて、普段よりは盛大にやりたかった。ただ、大したことではないが、どちらかというとあまり思い出したくない理由で、誰も我が家に招かず地味な誕生日を過ごした。その日書いたブログを再度読んでみると随分投げやりな書き方をしている。その分50歳になる時には、少々金かけてでも豪勢に祝いたいと思った。
だが、ご承知のとおり、今のこのご時世、そんなことも言ってられなくなった。もしかしたら、これもまた神様が、「もっと謙虚になって、これまでの人生を振り返って、ちゃんと感謝しろ」って言われてるのかもしれない。
元旦にも書いたとおり、去年はとんでもない年だったわけだが、日本では『不要不急』という表現が、軽々し過ぎるんではないかと思われていたくらい使われてたと聞く。
でも、当たり前だったことを失った時に初めて大事だったと気づくってことって多いだろうし、その反対に大事にしていたものが、実はそれほど必要でもなかったと分かることもあるだろう。本当の意味で何が大事で何がそうじゃないかってのは、『上』から指図される筋合いなんてないような気もする。
とにかく、普段以上に色々考えさせられることが多かった1年だったというのは、多くの人達が感じていることだろう。
この自分も、再び誕生日を迎えてしまった。
親父は70、母ちゃんは65だったんで、もしかしたら自分もそんなには長くないのかなと思うこともある。人生の3分の2は終わってるのかなと、考えてしまうこともある。親父が今の自分の年齢の時には、自分は既に大学生で、せがれが今まだ4年生だと思うと、ほんのちょっとだが焦りがあるのも事実。
その反面、自分なんかの何倍も苦労しまくってた親父や、持病も多く決して健康で元気という表現はできなかった母ちゃんと、この自分を比べるってのは、ちょっと筋違いなのかもしれないとも思う。
毎年この日に書くブログの題名は、その時の年齢にしてるわけだが、今回『半世紀』とタイプしかけたら、漢字変換の候補の中に『反省』ってのがあった。
これまでを振り返ると、色々あったけど、自分の力だけで生きてるんじゃなく、「生かされている」ってことを、つくづく実感する。
父ちゃん、母ちゃん、そして神様、この命ありがと。
Jesus loves y’all.




