Jesus: the Gospel according to Hisa:
VIPニューヨーク集会での証
2009年7月6日
以下、VIPニューヨーク集会で自分が証をしている最中に、常連の一人が書き取ったもの。
先日、自分が持っているCDを整理しましたが、私が持っているのが一番多いジャンルはロックです。ロックというと、5月に私が好きだった忌野清志郎というロックシンガーが58歳で亡くなって以来、彼の曲を聴くことが最近増えました。ボブ・ディランやビートルズ解散後のジョン・レノンなど音楽を通じて世界平和を訴えていたシンガーは何人かいますが、清志郎も、40年ロックをやっていた内の後半の20年には彼らの影響が強まり、音楽を通じて反戦や原発反対などを訴えていました。そんなことで世界平和のことについても最近考えることがよくあるのですが、そういう時に思いだすのが、ちょうど2年前の8月6日に開かれたVIP集会でプリンストン教会の栗栖先生が話して下さったことです。
栗栖先生は(私もそうですが)広島出身で、その先生が原爆投下の日である8月6日にどんな話をされるんだろうと興味がありましたが、その日先生が言われたことのポイントは、戦争とは我々個人個人が他人に対して抱く汚い思いの延長線上にあるということでした。戦争は、9月11日の同時テロの後のように国民が戦争を望むこともあれば、政治家が利益を追って起こす時もありますが、世界平和というのは結局我々個人の心の内から始めなければ意味が無いということです。日常生活で他人と喧嘩していたり他人に恨みやねたみを持っていて、その延長線上に戦争があるのなら、いくら口先で世界平和を訴えても駄目だということになります。それで自分自身を見つめなおすことが時々あります。先ほど申し上げたとおり、平和や戦争について考えさせられる曲やゴスペルを聴きながら車を運転することがよくあるのですが、そんな時に不注意なドライバーや歩行者がぶつかりかけて来ると、心の中で「わりゃ、どこ見とるんじゃ、あほんだらぁ!」と怒り、時には教会では言えないような英語のフレーズも出たりしますが、そういう時には自分の中に矛盾を感じます。
自分の中にある汚い部分は、生まれつき持っているものもあるのかも知れませんが、それまでどのように生きて来たのか、どういう風に物事を見てきたのかということと関わっているように思います。これまでも何度か話させてもらいましたが、私は米国に初めて来た年にはテネシー、それもナッシュビルから更に1時間南に行った人口400ぐらいの小さな町に住み、そこで高校2年-3年を過ごしました。当時は日本人の男子生徒は私一人で、寮ではアジア人は自分一人、後はほとんどが白人でした。何と言っても南部の田舎ですから、言葉もそうは分からず肌の色も違うとなれば、ご想像がつくようにあまりいい思いはしませんでした。
規律の厳格な学校なので暴力こそそう無かったですが、何分16、17歳の、これから自分の思いを出して行こうと意気込んだ年頃だというのに人格を否定されるような体験が続く日々でした。そうした体験も後々にはためになったことも多いと思うのですが、思い出としては楽しいことよりも嫌なことの方が多かったです。それで卒業後も、その学校から同窓会の招待やら寄付のリクエストの手紙などが来ると、嫁さんはよく知っていますが「何が寄付やー」とネガティブな思いが出て、開かずに捨ててしまうことがよくありました。
去年の終わりごろから、ちょうど卒業から20年になるということで同窓会の招待状が届き始め、今年に入ると、同じ時に行われるの別のイベントがあり、そこで旅費も出すからピアノを弾いてくれないかという話が来ました。だんだんネガティブな思いを抱えていることが気になり始めた時で、これも神様が行って来いと言われているのかなと思って行きました。いざ行ってみたら20年ぶりにいろんな教職員や学生仲間たちと会うことが出来て結構楽しかったです。また日曜にはナッシュビルの日本語教会の礼拝にも出ましたが、とてもアットホームな雰囲気で心地よく、新しい出会いもあって一生の思い出となりました。
テネシーに行く前の日に用事があってセントラルパーク近辺に行きました。ついでなので、パークの西側を歩いてみました。行ってみたい所があったからです。72ストリートの所にダコタハウスというのがあり、ここはジョン・レノンとオノ・ヨーコが住んでいたところで、彼が殺されたのもこの建物の前ですが、そこからパークに入った所に、ストロベリー・フィールドというジョン・レノンのメモリアルがあります。それまでここを訪ねる機会が無かったのです。テネシーに行く日を前にしてそこに行った時、レノンがビートルズ時代に書いた曲「In My Life」がしきりに頭の中に流れて来ました。
そこで思ったのですが、今まで起こった全てのこと、嫌な思い出や嫌な連中も全て神様が用意されたこと、そうは言わなくても少なくとも神様が止めずに起こるのを許されたことであって、それは今の自分を作るために神様が用意されたのかと、そう実感しました。よく教会で「赦すのは忘れること」と言いますが、私はいつもその言葉に少し疑問を持っていました。赦すことは忘れることよりも受け入れること、過去を受け入れて、それによって今の自分がいるということを認めることなんじゃないかと思います。今まで嫌なことをした人を皆赦せるかどうかは分かりませんが、そういう人がいたから今の自分がいるのだと、その思いを胸に守りたいと思います。
実はこの後、実際にその「In My Life」を弾き語りしちゃったりする…。
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