Jesus: the Gospel according to Hisa:
信 仰
1999年9月
そもそもインターネットに証を載せようと思ったきっかけは、自分の教会での色々な行事で多くの人たちの証を聞いて、「こんな素晴らしいものをインターネットに載せない手はない!」と思ったからであって、自分自身の証を書こうなどとは全然思ってなかった。
自分の場合、両親がクリスチャンだったせいか、幼いころから教会通いで、特に「宗教」というものに対する抵抗や、よく色んな教会や集会で聞く様な「イエス様との画期的な出会い」ってのもなかった。色んな意味で「いつの間にか」だった。 それに日本人の場合、「宗教はその『家』のもの」という印象があるせいか、「おまえがクリスチャンなのは、親がクリスチャンだからだろ」ってな事を言われることが多いということもあり、自分がどんな証をしてもノンクリスチャンの人達に対して何の説得力もないのではないかという心配がいつもあった。「クリスチャンなんですか?」という質問に、「はい」と答えると、大抵その次は「ご両親もクリスチャンだったんですか?」という質問が戻ってくる。 中には「両親がクリスチャンでもないのにクリスチャンになったとしたらたいしたもんだ。」という思いで尋ねられる人もいたかもしれないが、やはり多くの人は、「やっぱりな、どうせ親がクリスチャンだからだ」とか思ってたに違いない。 まぁ、いずれにしても殆どの場合、「親がクリスチャンだからだよ」とか「え? 宗教にすがり付くような奴だったの、お前?」ってな感じだろうか。
でも、結局はそんなことどうでもいい。人が自分の信仰に対してどう思おうと、自分のことを『宗教に頼る弱い奴』とか思おうと、どおってことねぇよ、ってとこか。
そもそも自分は、イエス・キリストを受け入れる事が『宗教』だとは思ってない。 『宗教』というと、お金や努力、知識の豊富さで神または神聖なる存在に近づくとか御利益を求めるのが多い。 だがもしも教育や努力で神様に近づけれるのなら、もっと昔にみんなやってるはずだ。 英語では『Christianism』と言う人は殆どいない(一応辞書には載ってるが)。 『Christianity』だ。 哲学としての -ism じゃなくて、性質や状態としての -ity。 聖書を勉強するだけで自分なりの『Christianism』を確立していくんじゃなく、神様との関係を保つのが『Christianity』だ。 聖書に何が書いてあるかで議論をするのも嫌い。 所詮人間なんて神様のレベルには達せないし、人間同士が自分達の意見で色々言い合ってるのって、結構時間の無駄な場合が多い様に思える。 もちろん聖書の中の御言葉を学ぶのは避けられないが、その解釈の違いで他の人と口論するのも無駄なことだと思うし、結局はゴタゴタ言ったところで、祈ってないと答えも導きも与えらない。 自分の場合は、他の『宗教』みたいに必死でつながってるんじゃなくて、自然体で受け入れている。ただ神を信じ、自分達の様な傲慢で罪深い存在のために十字架にかかってくれたイエス・キリストを自分の救い主として受け入れているだけ。 誰か『キリスト教』ってのを他の呼び方にに変えてくんないかなぁ。日本人はわけも判らず片仮名使うの好きなんで、そのまんま『クリスチャニティ』でええか…。
自分は1983年8月21日、12歳の時に母教会である広島県の東城キリスト教会で受洗し、その後16歳で留学のため渡米した。 テネシーの高校で寮に住んでいた時は、校則で強制的に教会に行かさせられてたせいか、大学に入ってから7年間、日本に帰国した時以外ほとんど教会へは行ってなかった。 高校はテネシー、大学はテキサスと、南部に8年間住んでたが、教会の多くが英語という共通の言語で礼拝してるにもかかわらず、なぜか人種によって分かれてたり、『クリスチャン』とかいう白人達が人種差別したりするのを体験し、「みんな偽善者だ」という思いが大きくなり、次第にまわりの『クリスチャン』とかいう連中がすごくうざったくなってた。 その間、自分はあまり聖書も読まず、友達といかに楽しく遊ぶかという事しか考えてなかった。 数人の女の子を含む多くの人を色々な意味で傷つけるということもあった。 それでも「人間生きてりゃ異性の数人傷つけてあたりまえ。」ってなノリだった。 神様に祈る時も「今日も楽しかったです。ありがとうございます。」という楽しい事への感謝とか「なんで自分がこんなめに合わなきゃいけないんですか。」という嫌なことへの愚痴ばかり語り掛けていて、肝心な「もし今の自分が危ない状況なら、どうかここから抜け出る様にお導きください。」という様な導きや委ねることに関する祈りはしてなかった。 とにかく毎日が楽しければそれでよかった。
でもクリスチャンも所詮人間だ。偽善者なんか教会じゃなくてもどこにでもいる。 教会だって、自分みたいに常に神様から離れかけてる罪人の集まりだ。 だけど、いつの間にか自分はイエスを見てたのではなく、「クリスチャン」と呼ばれる人間達を見ながら教会から離れていった。
ニューヨーク州アルバニーでの大学院の1年目が終わったころ、数年間色々な問題を抱えてた友人から電話があり、彼が通ってたニュージャージーの日本語教会で洗礼を受けるということを聞いた。最初彼が教会に行き始めたということを聞いた時は「どうせ暇つぶしか女探しだろ」と半分思ってたが、受洗すると聞いて、驚くと同時に嬉しくなった。彼の受洗式に出席した後、その教会の会員の人から、近くに日本語のアライアンス教会があるということを聞いた。 元々自分は教派や教団の違いなんで知らないし興味もなかったけど、自分の故郷である広島県の東城で通ってた教会もアライアンス教団に属してたし、かなり小さい教団であるアライアンスに日本語教会があるということを知った喜びもあり、ちょっと親近感を感た。 それでも「まぁ機会ができたら行ってみるか」という程度の気にしかなってなかった。
その晩、受洗を終えた友人のアパートに泊まっていた時、彼の教会の会員の一人から電話があり、次の日、そのアライアンス系の日本語教会で特別集会があるという事を知った。自分はその友人と二人で出席し、その集会で自分が日本人のクリスチャンである意味を改めて考えさせられた様な気がした。 以後、自分はその特別集会があったウェストチェスター日本語教会(現ニューヨーク日本語教会)に通う様になった。 今思えば、神様は、全然教会に行きたがらなかった自分から少しずつその言い訳を取り払ってれてた。 しかし面白いもんだ。「こんなあげ足取りにゃイエス様の話しても聞きもしねぇだろ。」と思ってた友人の受洗を通して、神様は自分をこの教会に導いてくれたんだから。
自分みたいに、親がクリスチャンだから、いつのまにかただの『二代目』にしか見られてない人の中には、「自分はこれでいいんだろうか」とか「本当に自分自身の信仰なんだろうか」って迷ってる人がたくさんいるだろう。アントニオ猪木の師匠であるカール・ゴッチはこう言ったらしい。「我々は迷ったら原点に戻らなければならない」と。 自分達の原点ってなんだろう? 神様だ。だからその神様を信じて祈り続けてほしい。神様は自分みたいな奴でも、ちゃんと導いて連れ戻してくれたんだから。
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