聖書というよりも、『キリスト教』とかいう『宗教』に、ここ数年凄く疑問を持っている。疑問どころか、『キリスト教』なんかどうでもええけど、『クリスチャニティ』はしっかり持っときたい、というのが正直なところ。それはこれまでこのブログや、信仰の証(左のメニューの『Jesus』を参照)にも書いてきた。
(ただ、その『Christianity』でさえ、いかにも自分達がクリスチャンの代表かのような振舞いをしながら他を否定しまくってる多くのアメリカ人のおかげで、実にウザい言葉になっているのも事実なんだが、それと今回のネタとは別として…)
また、韓国では人口の26~27%がクリスチャンで、中国でさえイエスを信じる人が増えてるらしいのに、なぜ日本では何百年経った今も1%以下なのかと、考えることも多い。仏教だって外国の宗教だし、中国や韓国の例からして、「西洋の宗教だから」ってのは通用しない。結局、日本の文化にアレンジされなかったからではないかと、ここ数年感じている。実際、クリスチャンの多くでさえ、『西洋の宗教』って思ってる人が多いんじゃないかと思う。
日本人の大半が知ってる『キリスト教』ってのは、今で言う中近東で生まれ育ったイエスの教えが、欧米経由で日本に伝えられたものだ。イスラエル辺りから出てきたのが、東洋の端っこにある国に伝わった時には、既に西洋化されていた。イスラエル以外の文化でも受け入れられたってことだ。実際、他の文化でもそうだったわけで、アフリカ系アメリカ人を見ると、ゴスペル音楽でも知られるように、彼ら独自の賛美や説教の方法を持っている。また、韓国人教会ってのも、独特の雰囲気を持っているという。両方とも、元々は西洋経由だったかもしらんが、彼ら自身の教会文化がある。では、日本じゃ不可能だったんだろうか。
確かに日本語の聖書を読むと、長年クリスチャンやってる自分でさえ、「これじゃぁ判り難い」って思うことが多い。それ以上に問題なのは、後述のビデオで聞き手の人が言ってるように、聖書に書いてある言葉を、どういう訳であろうと、そのまま『神の言葉』として捉えようとすることが多いってこと。それって、凄い危険なことだと思う。日本語と全く違う言語形態のものから、強引に日本語に訳し、誤解を招いたり、実際英語の聖書と比べても意味が違うとしか思えない場合もあるからだ。また、その人が言ってる様に、イエスというと、遠方の白人が日本語聖書に書いてあるような丁寧な話し方で喋ってるような印象を持つことが多いが、これだと、いつまでたっても身近な存在に感じられない人が多いはず。
先日、東北弁に訳され朗読されている聖書のCDってのを、友人に聴かせてもらった。どうやらギリシャ語から直接翻訳されてるらしい。別に自分は『耶蘇教和風化運動』を呼び掛けてるわけじゃないが、なんとなく、それっぽいことが起こればいいという理想があるわけで、山浦玄嗣氏の読む『マタイによる福音書』を聴いてると、そのヒントを見つけたような気がした。
ところで、自分の名前同様『玄』と書いて『はる』と読むのって、今まで殆ど見たことがない。まぁ、そりゃぁどうでもええとして…。
山浦氏による東北弁『ヨハネによる福音書』の解説の前に、まず別のビデオを。
以下は山浦氏へのインタビュー。教会の先生が曖昧な返答しかしてくれなかったってのも、いかにもよくありそうな話。結局「こう書いてあるから、こうなんです。」という、「宗教は人に考えるのを止めさせる」ってのが多いってことなんだろうか。
特に、後半の3分50秒あたりからは、このビデオのポイントそのものじゃないだろうか。
時々方言で書かれた聖書を見るが、それはそれで『翻訳』した人達の努力も凄いと思う。とはいえ、書いてあるという理由からか、なんか、わざとらしさを感じる。だが、こうやって、ギリシャ語から直接その方言に翻訳し、尚且つ朗読されると、伝わり方が全然違う。
アメリカに来て、英語を学びながら実感したのは、言葉と文化って一緒について周るってこと。アメリカの文化を知ろうとせずに、アメリカの英語は学べない。他の言語も同じはず。ヘブライ語やアラム語、ギリシャ語といった外国語で書かれ、それらとは違う語圏の人達によって日本に伝わった聖書を、本当に日本人に理解してもらいたいなら、やはり変なフィルター抜きで、伝わり易い言葉で語られることが大事なんだろうな。





わーい ひささん ありがと〜
ケセン語聖書、おもしろ〜い。
うちのおばあちゃん、2年前に洗礼受けたんだけど、聖書も説教もムヅかしくてよくわがんね〜とかいってた。
このバージョンなら親しみやすいかも!
さっそくおすすめしといたよん。